自主規制団体の存在意義と限界と

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先日サルベージをしていて見つけた、ソーシャルゲームと射幸性に係わる規制問題の新聞記事や、先日の放送法に絡んだ話のあれこれを見ている中で感じた話。泥棒におい銭的な感があるというか、自分達の良し悪しは自分達が決めて法的には拘束されないってのは、絶対王政の王様か、みたいな。

BPOにしても新聞協会にしても先のソシャゲの射幸性問題にしても、自主規制なり団体の存在意義が疑問視される事案が相次いでいるのを見ると、やはりその類の「自分達で取り決めをしてお痛はしないようにしまーす」的なものは、判断が甘々になってしまうのだろうなあという感想しか出てこない。当初は厳しく律するつもりだったとしても、するりと、そして確実に拡大する形でタガがゆるんでしまう。そしてそこには歯止めをかけるものは誰もいない。よほど肝っ玉の据わった人が出てこない限り、自分達の「利権」を削るような行為を勧める人はいないし、それを評価する人もいない(中長期的な視野を持っていればそんなことはないのだけど)。

元々自主規制やそれを統括する業界団体の存在意義は、明文化による法的規制を受ける前に、自主的に手を打ち「お痛はしません」という国への意思表明と、その実行でしかない。もやもやしたグレー的な部分で統制をとって大人しくする・させるから、社会を乱すようなことはしないから勘弁してねというものだ。例えるなら、親に「宿題忘れたら一か月おやつ抜き」と決められる前に、「宿題やってからオヤツを食べるルール」を自己宣言するようなもの。明文化されてがっつりと規制されたら色々と窮屈になるからね。

でもそのルールの違反罰則を設けなかったり、設けてもそれを守らなかったり、独自解釈で判断を甘々にして、宿題を忘れてしまうことを繰り返せば、明文化した決まりを設けられてしまう。まさに自業自得。

まぁBPOに関しては先日の「SMAP問題を放送倫理上は問題はなかったと判断したBPOに意味はあるの?」で、存在意義を完全に否定されてしまったようなものだからねえ......これもまた、業界団体の意義を改めて問う事案には違いない。

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このページは、不破雷蔵が2016年3月 2日 07:35に書いた記事です。

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