詰め込みで学ぶことと、それを有効活用するための勉強と、それができないとどうなるか

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詰め込み教育ってのは否定的な言い回しとして認識されているけれど、単語の丸暗記とか文法や方程式の暗記を思い返すに、そもそも論理的な物事を考える時の必要なツールが、その詰め込み部分にあたるのかなあ、と考えれば良い気がする。図画工作をする時にのこぎりやカナヅチの使い方を覚えさせられても、その歴史や内部構造まで詳しく知る必要は、とりあえずは無い(上手な使い方ってのは知っておいた方がいいだろうし、将来的に学ぶ必要性が生じるかもしれないけどね)。

先に【「先人の下ごしらえを活用することはとても大切」と八房龍之助先生のお話】でも触れた、先人の下ごしらえを使う際にも、そのための道具として、詰め込みによる知識・知恵は必要。ぶっちゃけ、言語そのものもその類。物事を考える、思考を構築するための言語は、とりあえず詰め込んで覚えるしかないよね。


で、その詰め込んだパーツは単体でも使えるけれど、それを有機的な結びつけをすることで、自分自身の知恵となり知識となる。先ののぼりや工事現場のプレートにしても、それ単体では「そんなものがあるんだね」で終わってしまうけど、それぞれ露天販売や小売店業、工事の運用をする際のノウハウの一項目としてまとめ上げれば、一つの大きな知恵となる。それを結びつけるために必要なのが工夫であり、思考力であり、さらなる知識。

そのつなぎ合わせができなかったり、元々のパーツが欠けている=基本的な詰めこみによる情報が欠けていると、論理的な物事の考え方ができない、コケることが多々ある。レゴで建物を創ろうとしても、パーツそのものが不足していたら妙な形になる。プラモデルで特定部品が欠けていると完成できなかったり、不格好な造形が出来上がる。

指摘の通り放射線周りで色々とお騒がせな人や、エセ医学に浸透してしまう人は、必要なパーツが欠けていたり、その欠けたパーツ部分にインチキなまがい物を埋め込まされてしまったり、他のパーツをひっばっり出したりよじ曲げて無理矢理つけた場合が多々ある。全体像としてはおかしいし、バランスが崩れているのだけど、創った本人はこれで良いと思っているから、始末が悪い。


テレビ番組や雑誌、新聞の需要の減退とか、先ほどのポスターデザインの件も近しい部分があるのだけど、不特定多数に情報を露出するメディアの配信側でも、このパーツ欠け的な状況が多々見られるようになり、それが世間一般への悪影響をもたらしているとの指摘は、理解できる。

あるいは何度か指摘しているけれど、実のところは元々その程度のものであり、情報のやり取りの度合い、頻度が桁違いに増え、情報の概念そのものが変化したことから、実情が露呈しただけ......なのかもしれない。まぁ、「この手口の方が高コスパで視聴率を維持できるから」「読者維持ができそうだから」と容易な方向に走れば、段々と中身は軽くなっていくよね。特設スタジオを用意するのはお金がかかる、書き割りならばちょっとダサイし臨場感に欠けるけどお金はかからない。一部分だけ使ってみたらあまり集客に変わりは無かった。ならば......と、書き割りが少しずつ増えて、しまいには書き割りだけの特撮映画になっちゃった感じ。

さらに余談だけど。個々の情報にどれだけたくさんのフックをつけ、他の情報との引っ掛かりの機会を増やし、連結して新しい、より確からしい情報へと昇華させていくか。脳内での記憶の仕組み(ニューロンとか)と概念的には似ているんだけど、それをある程度意識した上で物事を考えたり、覚えたり、記録しておく必要があると思うんだよね。

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この記事について

このページは、不破雷蔵が2015年12月28日 08:00に書いた記事です。

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