愛着のあるものだからこそ捨てるのを決意する時がある、創り手の裏が読めてしまった時

| コメント(0)


震災以降よく出てくる状況ではあるのだけど、特定の作品を気に入っていても、その作品の創り手の背景や思想、思惑が暴露されると、思いっきりその作品群への熱が醒めてしまう......どころか、反動で敵意、憎悪にすら転じることがある。自分を騙していたな、騙されていたんだな、みたいな。

確かに作品そのものの良し悪しと、創り手の感情心境とは別物であるべきなのも理解できる。どれほど極悪非道の大悪人が料理人であっても、その料理人が創ったレシピによる美味しい料理は美味しいに違いない。ただ、その創作物の向こう側に見える思いが読めてしまうと、すっと心の中の火が消える。舞台劇にのめり込んで見ていたのに、無神経な隣の人がかきわりやら舞台の粗を大声で語り、現実感に引き戻されてしまうような、あの瞬間が連続してしまうのだな。

目の前に並べられているアーティストたちの作品。個々の作品は好きなんだけれど、創り手の思惑が見えてしまうと、それぞれの作品への想いが再定義され、疑いを持ってしまう。作品が目に触れているだけで、わだかまりやもやもやとしたものが想起される。QOL上、非常によくない状況となる。

震災以降、このような経験をした人も少なくあるまい。当方も作家方面で数名、そのような判断を下してしまい、さすがに捨てるまでにはいかなかったけれど、新作の調達を止め、手持ちの作品も段ボール箱に押し込んでしまったものがある。色々と裏が読めてしまうんだよね。作品の一つ一つに。


PTSDの可能性。目に留まる、視界に入る、思い返すトリガーが目の前に存在する。確かに可能性は否定できない。自分がかつて事故に遭った時の車種のミニカーがずらりと、その事故の状況を再現した状態で置かれていたら、どう思うだろう。オーバーと思うかもしれないけれど、ステルスマーケティングの発覚後の反動による憎悪と同じで、自分がかつて好き好んでいた対象だからこそ、そのインパクトも大きい。


震災絡み、そして昨今の安保法案絡みでも繰り返し言及しているけれど、個人ベースで物事を考え、語ることは特に問題は無い。むしろ積極的にやるべき。ただし、別方面における自分の肩書や実績を持ち出した時点で、これまでの成果や実歴は、すべてその個人ベースでの思惑、政治的思想で染まってしまう。肩書、実歴を利用したのだから。例えばどれほど美味しい食事を提供する企業でも、その企業が極悪非道な裏稼業に手を染めていて、その利益で食事を創っていたことが分かったら、その食事の愛好家はどのような想いをいだくだろう。

「それも含めて自分だから」というのなら、それはそれで構わない。ただ、その上で増えるファンの多くは、その政治的意識に賛同した人が多分で、作品などへの注力は薄い。逆に、離れていくファンの多くは、作品そのものは好きだったのに、背景に潜むものの残念さから離れていってしまっている。クリエイター、創作者にとって、何が大切なのかな、と思い返せば、色々と理解はできるような気もするのだけどね。

あるいは、「そういう」クリエイターの人達は、自分の作品ですらも、自分の政治的意欲・意志のための材料に過ぎない、そんな判断を下したのかな。少なくともファンの一部にはそう思われている。だからこそ、今件のような話も少なからず聞く次第。

先の安保法案絡みも合わせ、その点では「迂闊な」専門家やクリエイターが多いな、というのが正直な感想。

関連記事             

コメントする

            
Powered by Movable Type 4.27-ja
Garbagenews.com

この記事について

このページは、不破雷蔵が2015年8月 6日 07:47に書いた記事です。

ひとつ前の記事は「お年寄りに限らない!? 寝つきが悪い時があるけれど、どうすればいいのかな」です。

次の記事は「学者は政権へのスタンスで自分の専門分野に係わる言及をしてはいけない」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

* * * * * * * * * * * * * *


2021年6月

    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30