「多数派にケチを付けるのがジャーナリズム」なる意識と、商売目的ならば新聞にその立ち位置を担保させるための競争システムを導入してはとの話

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先の新幹線事案周りの報道から、改めて「報道ってなに?」「ジャーナリズム、ジャーナリストって今の環境ではどのような立ち位置にあるべきなの」という感じの話が色々と提起されている。まぁ、報道側の状況そのものがますます危ういものとなっているので、問題視されるハードルがどんどん低くなって、すぐにぼろが出る感じ。

今件ではまず、ジャーナリストを自称する方との話の中で、あくまでもその方の主張ではあるのだけど、ジャーナリズムとはこうあるべきだとの話と、それは筋違いではないかとの主張のやりとり。見ている限りでは前者、ジャーナリストを自称する方の考えが旧態依然という認識でしかない。昔はそれでも通用したのかもしれないけれど、時代は流れているのだよ、みたいな。というか、自称にせよ他称にせよ、「ジャーナリスト」なるものがそれほどまでに特権階級的なもので自由奔放であってよいなど、いつ決まったのかな。


まぁざっと読む限りにおいては、くだんのジャーナリストな方はかつての時代のスタイルから抜けられていない、現状の変化を認められていない感じがする。進化しすぎで環境の変化に適応できなくなった(という説が現在では良く知られている)恐竜みたいな。

【想いの通りにならないと地べたにへばりついて駄々をこねる子供のような...「批判自粛が広がっている」とジャーナリストや知識人が会見】で覚えた香りとまったく同じ。なんか巨悪があって、それに対抗していればヒーロー扱いされて、そのうちにそれが正義だと思い込んでしまう。先鋭化との表現はあったけれど、ある意味進化の袋小路状態な感もある。


で、ここからが新聞に限った話ではあるのだけど、暴走に絡んだ改正案的なお話。【「自由」と「自由奔放」は別物、そして「歯止めなき力は正邪の別なく暴走する」】とは自由なんちゃら協会で取り上げた言い回しだけど、あれは結局新聞などの従来報道機関の超先鋭化されたものが体現化した雰囲気が強い。彼ら自身はそれら従来型の報道からの脱却をうたっていたのだけど、実体はまったく逆だったという、歴史的皮肉な結果だったわけだ。ごっこ遊びが問題を露呈化させたような。

提案の中身としては、まぁぶっちゃけ「蠱毒」。すでにそれが行われてもおかしくない環境ではあるのだけど、なあなあまあまあ的なのが実態。よく新聞で「警察内部の犯行は甘くみられる」等と言った形でお仲間意識として揶揄して糾弾しているけれど、当の新聞社、報道関係である程度まとまった集団同士で構成されている状況において、まったく同じことをやっているのだからお話にならない。

新聞にしても商業媒体だから「嫌なら買わなきゃいい」というのも一つの手法ではあるのだけど、その結果として状況が実体化するまでに及ぶであろう影響を見て見ぬふりをするってのも問題な気がするし、例えば沖縄の事例のようにジャーナリズムと機関紙行動が何ら変わらない状況になっているのもある。報道、新聞、ジャーナリストが三つ葉葵をつけた印籠的なものとして権威を振り回している雰囲気が強いのだよね。今はもう江戸幕府は無いのに、という感じなんだけどな。

自由競争の結果として任せれば良い、それは一理ある。ただその存続環境において、「報道だから」との特権を利用して立ち位置を維持しているのであるのなら、それ必要なだけの義務的な要件を満たす必要がある。つまり、振りかざしているその「報道」の葵の紋は果たして価値のあるものなのか、またそれを有するだけの資格を現在持ち合わせているのか、ということなんだよね。個々の質的に、そして環境全体から見て「不特定多数に対して正しい情報発信を行う」という特殊技能を持ち合わせている数少ない存在だからこそ、優遇されているのかとの観点において。

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このページは、不破雷蔵が2015年7月 4日 08:52に書いた記事です。

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