作り手の思惑と、参加者の発想のすれ違いと...多人数が参加するゲームのバランス調整の難しさ

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これは以前の多人数同時参加型ネットワークゲームでもよく論じられた話で、特に社会基盤の再現がよく出来ていたゲームでは、相応にルールをしっかりと設定しておかないと、それこそ実社会と同様に穴をついた挙動が大手を振るってゲーム社会内にまん延してしまうという話。だから「多人数でソロプレイをつなげるみたいなもんでしょ?」的なお気軽モードの話では無く、それこそ国家を運営する感覚での運用が必要になる。『ウルティマオンライン』など経済感の強いゲームでは、社会実験的なやりとりも積極的に行われていた。今はどうかは知らないけれど(汗)。

ゲームプレイそのものの仕組みは随分と楽なはずのソーシャルゲームでは、人同士のつながりに重点をおいていることもあり、実のところこの問題は同等、あるいはそれ以上に発生しうる。人のつながりを重視するための場、ツールとしてのゲームだったはずが、ゲームの目標達成のために人のつながりが利用されるようになる。あるいは人のつながりはゲームのエッセンス、プラスα程度のものだったはずが、必要不可欠な要素となってしまう。性善説の上で想定されていた状況が、性悪説による実態によって蹂躙されていく。「こうなるような手立てを用意しておこう。そうするとみな楽しいだろう」との仕組みは悪用され、多くのストレスの元となる。かくしてルールは厳粛化され、自由度は狭まっていく。どこかで聞いたようなパターン。


特に集団行動が関わってくる話では......というかプレイヤー本人以外の行為が影響する状況では、同時に効率化が求められ、マイナス思考が先行するようになる。その方が得られる利益は大きいから。

運用側としては「せっかく、こんな感じで皆がハッピーになれる仕組みにしたのに、どうしてその道筋に従わないのか」と地団駄を踏みだろう。ただ、個人のプレイヤーベースでは最適化を求めて動く以上、より良い方法があるのならそちらにシフトするのは当然の話。全体の幸福=運用のメリットと、個々のプレイヤーの幸福=個人のメリットとは別物になるのなら、こんな結果に陥るのは当然の話。

ゲーム理論でよく言われる「囚人のジレンマ」が上手く働くようにして、かつそれを周知させればある程度は防げるのだけど、ゲームのシステムでそれを導入するのは非常に難しい。見方を変えれば、それを巧みに取り入れることができれば、疑似社会としてのゲームもより面白いものになるのだろうけれど。昨今のゲーム、特にソーシャルゲームで、そこまで考慮した上でシステム構築やバランスを調整しているものが、果たしてどれだけあることか......。

あと、「ユーザの善意や公共心に依存した設計は良くない」。これは大事。読み方を変えると、ボランティアや奉仕活動を前提とした仕組みは必ず破たんするってこと。世の中の人全員が聖人では無いからね。

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このページは、不破雷蔵が2015年6月15日 08:00に書いた記事です。

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