理系と文系の仕切りはどれほど意味があるのか

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高齢化で年金補助や社会保障に国家リソースが食われるので、今後の社会を支えるさまざまな方面のリソースを削ろうという、理解しがたい話が進む中で、大学の学部整理統廃合の問題が持ち上がっている。今の担当大臣がナニでアレという話はさておき、そもそも理系と文系の仕切り分けって、今ではどこまで意味があるのかな、という話。

随分と科学的な技術が進歩普及し、双方の境目は随分と曖昧になった感はある。昔は文系......文字、理系......数字を扱う位な大雑把さでも大体なんとかなったけど、今では文系に仕切り分けされている分野でも多くで数量的、統計的な話は使われるし、インターネットやパソコンは多用される。一方で数字的な技術分野においても、それを人間が扱う限りにおいては、文系的な発想や情報、技能は欠かせない。表現方法とかね。特に経済学はもろ理系的なものだよね。経営工学は元より理系サイドだけど。


指摘の通り思い返してみれば、時折発する論争の中に文系だから、理系だからってのがある。あれも恐らくは、実のところは意味のない石つぶての投げ合いなんだろう。


他方、いやむしろだからこそ、基礎となる部分の学問は欠かせない。特定分野に特化していると、視野がそこに限定され、発想の点では非常にマイナスとなる。応用部分だけ、特定の専門分野だけでは、状況がちょっとでも変わると対応できなくなる。「社会に必要とされる人材」とあるけれど、それは誰が決めるのか、その判断は正しいか否かと誰が保証するのか、そしてその「必要」は現時点のものであり、これから将来に渡りずっと継続するものでは無いことを理解しているのか、ツッコミどころは多い。

どこかで聞いた言い回し、「世の中には今必要なものと、これから必要なものの二種類しかない」ってのを思い出す。あるいはソニーのAIBOの話とか、ね。

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このページは、不破雷蔵が2015年6月10日 07:24に書いた記事です。

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