「卒業文集やソーシャルメディアの朗読はしないで」意思カードという提案

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「不特定多数の心に記憶させるには印象深さが必要。だから人となりを伝える必要がある」との大義名分のもとに、事故・事件被害者の卒業文集などを「報道」として伝える風潮がある。詳しくは【「親近感を持たせるため」という大義名分のもとに繰り返されるプライバシーの暴露】などでも解説しているけれど。

伝え聴く側のうちどれほどまでがその手法に納得しているのか、効果はあるのか、一度精査すべきではないかとすら思える。「命の無いモノには権利は、人権は無いし、拒否権は無い」との主張もあるようだけれど、例えば卒業文集一つをとっても、そこに書かれている内容はその存在自身も含め、本当に故人のものだけに留めることができるのか。果たしてそのような情報が存在しえるのか。さらにはそれを見聞きした視聴者が「自分も同じような事例に陥ったら、同じようなことをされる」という認識、反発を抱くことを想定していないのかなど、疑問を覚えさせることは山ほどある。

先日、某事件で今後は卒業文集だけでなくソーシャルメディアの書込みなどもメディアで風潮されることになるとの懸念に対し、ダミーで自分自身のアカウントをFacebookなどに作っておき、万が一の場合にはそちらを巻き餌にするしかないね、という冗談のような話があった。しかし現状では冗談とも言い切れない。

また「自分がこの世から去った後のことなど、どうでもいい」と思うかもしれないし、確かにそれは一理あるのだけれど。人が社会生活を営む以上、どのような状況における情報でも必ず他人が関わってくるため、その人個人の情報露出は周辺にまで影響を生じさせるようになる。自分だけの話だから、と割り切るのも難しい。

自分が命を落としたあとも、自分に係わる事案に関して、意志を伝える手法はある。遺書が良い例であるし、臓器提供カードもその類。それと同じように、情報封鎖カード的な形で、たとえプライバシーを主張できない立場となったとしても、自分に係わるプライベートな情報の類は公開しないでほしいとの意志を、残された人たちに伝えるような手立ては欲しい。

本来こんな話は常識と良識で考えれば当たり前の話で、むしろ「自分が亡くなった後は卒業文集などのプライベートな情報は一般公知してもかまいません」というカードが必要......となるのが普通であるべきなんだけどね。

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このページは、不破雷蔵が2015年3月28日 07:57に書いた記事です。

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