現場第一主義、「現場の意見が」を声高に挙げ、傾倒しすぎる事の危険さ

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具体的な名前を挙げるのは避けるけれど、先日某議員がまるで周辺の迷惑ぶりも気にせずに店員に罵詈雑言を吐くようなクレーム的な口調で怒鳴りまくしたて、時間を超過して委員長に制止されてもそれを無視し、挙句の果てに怒られるという顛末を目にした。昔の話では無く、つい先日のこと。で、その内容を聴いてちょいと思ったこと。

この議員の発言でも顕著なんだけど、「自分が知っている特定の個人、あるいはごく少数の事例」に直接触れる、あるいは資料を見聞きして感情移入し過ぎ、その内容をそのまま全体に当てはめる、発する声の音量だけフルスロットル・意識だけ高い的な話が増えてきた感がある。

先日某戦場記者の件で「現場にいることをオールマイティカードとして振り回し、かつその『自分がいた現場』が世の中のすべてと誤認する」傾向、と表現すればよいのかな。現場の空気を肌身に感じることは大切で、数字などでは分からない「空気」を読み解くことが出来るのも事実。ただ、その一部分、事実の切り貼りを全体のものと誤認し、あるいはそれが一部でしかないことを理解した上で、第三者に向けて誤認させるような論評は、頭に疑問符を浮かべざるを得ない。

「自分が耳を傾けた、実際に会った人の意見はこうだった。だから世界全体もそうに違いない。どうにか対処をしてください。国が動くべきです」。

あなたが主張しているその状況に関して、サンプルは世間一般、少なくともその地域、環境全体を代表するのに十分な数だろうか? 費用対効果の点でかえって浪費する選択肢への誘導となってはいないだろうか。あなたの言う「皆」とは、あなたにとって都合の良い特定の一群なのではないだろうか。

統計的な視点で考えると、今件は良くわかる。極めて少数のサンプリングで全体を評価してしまうようなものだからだ。もちろん情報のアンテナとしてなら、少数のサンプリングでも有効(これはこうだったから、ひょっとして全般的な感じで? もっと詳しく調べてみないと......的な)。ただしその少数サンプルの時点で事態を確定づけるのは非常にリスキー。これは時折、意図せずしてやってしまうので自戒も含めて。

先日も「若者に聞いてみた」と評して読者を誘導させているけれど、その実、話の論旨に都合の良いごく少数の人に聴いて、それを全体の意見のようにまとめていた某海外在住ジャーナリストの話もあったばかりで、色々と考えさせられる。

もちろんそんな人たちに(労苦ばかりで得るものが少ないため、やることは滅多にないのだけれど)【「統計とは残酷さを打ち消す残酷さを持っている」】の言葉にある通り、統計的なデータを呈してツッコミを入れても、大抵は逆切れするか、あくまでもその少数サンプルを前面に押し出すのが関の山。「それでもこの事例では!」とヒステリックに腕をぐるぐる振り回しながら反論する様子が目に浮かぶ。


完全なログが見つからないので誰が口にしたのかまでは確認できなかったのだけど、2014年頭にNHKで放送された「ニッポンのジレンマ」という番組で「自分の半径5メートルの社会が社会全体を示す」ような言及をしていたらしい。上では「訳では無い」って言われているけど、最初全体を示す云々という話があり、それを否定する意見も出たとか。

現場の空気は圧倒的な力を持つ。だからこそ注意をしていないと、「5メートル社会の闇」に取り込まれてしまう。気を付けないといけないな。

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このページは、不破雷蔵が2015年2月 8日 06:17に書いた記事です。

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