「日本が巻き込まれるようになってしまった」「日本が変わってしまう」というけれど

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一連の中東での事案に関するあれこれの中で。どうも映像そのものに対する再検証も始まっていて、情報戦・心理戦の側面(意図的、あるいは結果論として)が出てきた雰囲気もあるのだけれど。日本国内の意識の高い方々のお話の中に、上記で指摘されているような意見がある。直近では2013年のアルジェリアにおける日揮の人質事件をはじめ、数々の事件が起きているけれど、それらはコンテンツとして消費され消化され、意識の高い人たちの脳裏には刻み込まれないのだろうなあという感は否めない。もう10年以上も前になるけれど、世界史の上で大きな事象として後々まで語られるであろう、「9.11.」の話はどこにいったことやらって感じだ。


多くの人は明確なところまではともかく、そのような話があったというのは多かれ少なかれ記憶の断片にはあるけれど、意識の高い人たちはあえてそれを無視する形で語ることから、その記憶は掘り返されず、新たなものとして刷り込まれてしまう。今件を大きく騒ぎ立てているのは「今の体制を叩くのに使えそうな素材だったから」「対象人物の一人がジャーナリストの肩書を有していたから」位では無いのかな(後者に関してはその肩書の元に行動していたか否かという問題もある)。ゼロではない以上意識する必要はあるけれど、必要以上な喧伝のされ方はかえって疑問視されても仕方がない。「大した」という表現はいささか眉をひそめざるを得ないけれど。


日揮の件が入っていて「9.11.」の事案が入っていないとかあるけれど、具体例の一つとして。取りこぼしもいくつかある気はするし、解釈次第で差し引きはあると思う。でも、「統計とは残酷さを打ち消す残酷さを持っている」とはまさにこのことでは無いかな。

某映画の後藤隊長の弁が思い出されるのは当方だけだろうか。

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このページは、不破雷蔵が2015年2月 4日 06:41に書いた記事です。

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