道路標識への落書きやシール、「芸術」「権力への抵抗の意思表示」という主張

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京都市の中心部にある進入禁止の標識には、キャラクターがマークの一部をかじっているように見えるシールが貼られている。


男は、標識は権力のシンボルで、標識を壊さずに、法律に対して異議を唱える作品だとして、90カ所にシールを貼ったと話している。男は「僕の作品があれば、みんなもっと標識に注意を払うようになる。だから僕は、安全のためには、いいことだと思う」と話した。


今件は京都や大阪での事案だけれど、当方の行動領域周辺でも時折降ってわいたかのように、妙なイラストのシールが標識や看板に相次ぎ貼られていたりするのを見かけることがある。都内などではバンドなどのプロモーションとして使われた事例もあったことを昔見聞きした記憶もあるのだけど、そのビジュアルからして多分に芸術うんぬんなんだろうなあ、という感は否めなかった。

今件も説明によれば、「標識は権力のシンボルだからそれに異議を唱える意味の『作品』」「自分がこれをやれば標識が注目を集めるので、良いことをしたと思っている」とのこと。この辺りの言及は、しばしば問題視される現代アート的な香りが多分にするのは当方だけかな。

「カワイイ」「デザイン的に面白い」との話もあるし、海外のデザイン掲載サイトにも似たような切り口でイタズラをして「作品」として紹介されることもあるけれど、正直これを「芸術」とか「作品」としてドヤ顔で語るのはどうだろうという感は否めない。

「標識を壊していないから大丈夫」的な話は、デザインを崩し、元々の絵に手を加えた時点でアウト。物理的に壊さなければ何をしてもいいってわけじゃない。標識のビジュアルはその姿形をしてこそ標識になるのだから。

これが許されるのなら、当事者の顔に色々な落書きをしても「ケガをさせていないから問題ないよね?」ということになってしまいかねない。その例えが極端だとしたら、信号機にセロファンを貼り、全部青にしてしまうというのはどうだろう。「規則は権威の象徴。それに逆らうようにするのは異議を唱えることになる」ってのもOKとなってしまう。

「注意を払うようになるから自分は良いことをした」というのも間違い......というよりは、自分の行為の正当化。やるのなら本物の標識にではなく、標識を模した作品を創り、その上に手を加え、展覧会などで展示すればいい。

大阪や京都の市街地で昨年末以降、道路標識にハート形や人型のステッカーが張られる被害が相次いで確認された事件で、大阪府警交通指導課などは14日、道交法違反(信号機等の移転、損壊等)の疑いで、自称イタリア在住のブランド品販売員、浦川真弥(まみ)容疑者(43)を逮捕した。


「アート目的だったが、今となっては反省している」と容疑を認めているという。



「アートなら何をしても許される」と、芸術をオールマイティカード的に振り回すと、結局多くの人が迷惑をこうむることになるんだよね。真面目に作品を創っている人も含めて。

元の状況に修復するのには、それなりにコストがかかる。道交法などを厳密に適用させた上で、原状回復への費用の請求をがっつりとしてもらいたいものだね。

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このページは、不破雷蔵が2015年1月15日 07:11に書いた記事です。

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