共同体意識が強い日本を再認識させられるお話

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先日のフランスにおける襲撃事件を皮切りに、表現問題(自由の領域)だけでなく同国内における集団意識や共同体の問題にまで話が及び、さらにそれらの問題を状況が異なる日本に対しても「美味しいところだけ抽出した上で」取り上げて自らの論説を強化補強するような話が出ている。個人的には「暴力行為」の是非と「該当批評漫画の内容」の是非は別問題で、「暴力行為」の否定が「批評漫画の内容」の肯定とイコールではない。つまり「暴力行為の否定」と「批評漫画の否定」は同時に行える。二分法で考えてしまいがちなミス。また「批評漫画の内容」と「表現の自由」もイコールではない......とは思っているのだけど。

それに絡んで、日本の場合はどうかという話となり、日本はむしろ差別云々というより、共同体意識をベースにした発想が大きいんじゃないかという指摘。郷に入りては業に従えをする限りは問題が無く、そこで「自らの国の独自性」「自分らの文化ではこうだから」という、全体からすると違和感を覚えるようなスタイルを強要すると、それが誰であろうと排除の対象になりうる、と。よく言えば環境の安定維持装置が社会全体でルール化されている、悪く言えば村社会。そして指摘にもある通り、差別というよりは区別。

これって以前本家サイトで分析した内容、【日本の若者が抱えるネガティブシンキング、各国比較で上位独走!?】【日本は高め、「自国民としての誇り」「何か役立つと思うことをしたい」諸外国での違い】でも言及している、

・日本は他国と比べると「一人一人の個人」としての認識よりも、「全体、集団の中の一員」としての認識が強く、それが各種判断や考えにも深い影響を与えている。国という集団の中の一員としての認識が強く、それゆえにその所属対象への貢献・奉仕を願う気持ちが強く表れている


・日本人は他の国の人と比べて、『自分が他人に役立つ存在である』と認識することで、初めて自分の満足・充足感を得る傾向が強い。日本では「自分は社会の一員で他人とのつながりの中で生きているので、他人に認められて役立ってもらうことで、存在価値を見いだせる」傾向が強い。


辺りと合わせて考えると、非常に道理が通る。単なる個では無く、集団の一員としての個が求められ、それを果たさないものは異質扱いされ排除される対象として認識される。どんな集合体にも存在しうる、生物的な挙動ではあるのだけど、日本の場合はそれが特に強い。

今件事件で何となく違和感、というか社会文化の根本レベルでの違い、「ヒストリエ」風にいえば「文化が違う!」的なモノを覚えるのは、この辺りが一因なのかもしれない。

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このページは、不破雷蔵が2015年1月12日 07:53に書いた記事です。

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