ほめられなくて元気が出なかったら他人をほめてみようという話

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別に第三者から賛美の声を受けなくても、自分の願望が叶ったり、数字的な結果が出ればそれで満足ができるってのもあるのだけど、それでも人は社会的な生き物だから自分以外の人の視線を気にするし、評価を受けたいという願望がある。だから、評価をされない、褒められないとなると、自分が認められていないのでは、さらには自分には社会に存在する意味が無いのではという思いすら抱いてしまう。

具体的な数字に結びつくもので無くても、何らかの評価が欲しい、自分の存在を認めてほしいという願望は特に恥ずかしいものではないし、自営業者とかクリエイターにとっては燃料のようなものですらある。モチベーションの維持に消費をするので、定期的な補充が必要。だからこそ褒めて的なウェブサービスも盛況を博すようになる。

ただ、そのような願望が常に満たされるとは限らない。自分から他人に強要するものではないからだ。だったら自分から誰か他人をほめてみればいいというのが今回の話。単なる太鼓持ちでは無く、ちゃんと長所、褒める場所を見つけて評価することが大切。

これって実は、作品へのレビューのコツと同じ考え方だったりする。悪い事、ダメなところを見つけて叩くのも方法論の一つではあるし、炎上商法と同じで容易に懐が温まるものではあるけど、褒める部分を探して評価した方が、書いていて気持ちが良いし、対象の本質も見えてくる。悪い所をあえてよく書くってのは単なるフェイクでしかないからね。


褒められるようにするってのは自分の努力や成果によるところもあるけど、他人次第ではあるから自分のコントロールには限界がある。さらに、仮に褒められたとしても、それを素直に受け入れられるかどうかは別の話。単なる太鼓持ちだったりえこひいきだったり勘違いだったり、見当違いの評価だったりと、受け入れがたい褒めである可能性がある。

でも他人を褒めるのならばいくらでもできるし、訓練も容易だ。引用元では誰でもいいとあるけど、別に人に限った話では無く、無機質なものでもサービスを対象にしてもいい。とにかく何か長所を見つけて褒めてみる。

自分以外の誰かを、何かを褒めて元気が出るのは、色々な理由があるのだろう。何か良い事をした...というよりは、よいものを見つけたという満足感を得られるからではないかな。良い作品に接して、至福の喜びを得る。それを自分自身で創生することができるから。ほめる対象に触れている、遭遇しているということ自体が、自分にとっての喜びであると認識できるからなんだろうな。

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このページは、不破雷蔵が2019年1月 3日 07:57に書いた記事です。

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