「出演者の語りだから内容はどんなものでも問題は無い」とする放送局に問題は無いのか

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以前反社的なジャーナリストやメディアが意見を同じくする活動家へのインタビューや取材という形を取り、その人たちの主張や論説を大っぴらに公知させ、しかもそのスタイルによって正当な内容であるかのような権威づけをする手法が目立つようになってきたという話をした。今件もその派生的なものとして、目に留まるようになったということで。

自分の間違いを公的な場で認めておきながら、それを無かったものとし、責が無いものを自分があると思ったから罪を認めて刑に服する、責任を取るべきだという意見を、公共電波で流していく。取材だから、インタビューだからという免罪符を使ってこういうことをするのはいかがなものだろうか。前世紀末の悪質系新興宗教団体の教祖への長時間のインタビューを何度も流したのと全く変わらない、悪質な構造(ちなみにラジオも放送法の対象だからね)。

先日も元朝日の人が関係するテレビ局の番組で「自分が怪しいと思ったから刑に服するべきだ」と堂々と語っていた。つまりこの界隈の方々は、そういう思惑の持ち主なのだろう。

一方でこの類の話を堂々と放送した放送局に対して。「出演者の意見だから、局自身には何の責任も無い」ということなのだろうけど。ならば掲示板とか動画共有サイトの投稿内容も「投稿者の投稿だから何の責任も無い」という事に......はならないよね。なんでだろう。不思議不思議。

今件、前世紀末に大被害をもたらしたオウム真理教の教祖や幹部信者の語り・主張・弁明を、インタビューという大義名分で、繰り返し長時間公共の電波に乗せた、テレビやラジオの大罪と構造的に何ら変わりは無い。以前この類の情報公害を調べていた時に、随分と物議をかもしたようなんだけど、メディア・報道界隈は何も学んでいないんだな、と。


まぁ、そういうことなんだろうな。そんなことはないという反論もあるだろうけど、それを証明する手立ては何もない。読者欄と社説との境界線はあって無いようなものだからね。

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このページは、不破雷蔵が2017年12月20日 07:42に書いた記事です。

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