「何が語られたか」よりも「誰が語ったか」が大事になる時代

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フェイクニュース、フェイクニュースと新聞やテレビが騒げば騒ぐほど、新聞やテレビ自らの信ぴょう性が揺らいでくる、非常に興味深い状況となりつつある今日この頃。指摘されている通り、語られている内容の一次ソースを見つけて精査する必要性が多々生じているってのは否定できない。どのような曲解、編集、ねつ造をしているか分からないからね。この辺りは以前【「麻生首相が証券会社や株式投資を見下した」と報じられた有識者会議を検証してみる】【「麻生首相がドイツを名指しで批判した」と報じられた記事などを検証してみる】で言及した「何か報じられるたびに一次ソースを確かめなければならなくなるので非常に面倒くさい。それに、これって、しばしばウソをつく人への対処法なんだよね」に行き着いてしまう。

「探すきっかけとしては有益だ」との話はある。ならば事実を淡々と述べるだけでよく、あるいはリリースをそのまま配信したり、警察発表などを素で伝えたりすればよい。下手に偏向、編集、ねつ造までするからタチが悪いわけなのだな。

メディアの信ぴょう度に関する調査結果の分析では繰り返し言及しているけれど、結局のところ情報の確からしさを第三者が精査するのは、一つ一つを検証したのではオーバーフローを起こしてしまうから、どこ発信かによるもので判断した方が楽ってことになる。新聞やテレビはそのままほぼイコールそのメディアの業界団体につながるけど、インターネットはインフラだから同じように考えると齟齬が生じる。自動車事故が起きたら全自動車がヤバいので乗車禁止としちゃうようなものだ。

情報が増えたので精査しきれないから、確証性の高い発信源を頼ってそれに注力する。その方が自らの精査でパンクする事も無ければ、外れを引く可能性も低くなる。その方が賢いってこと。

沢山飲食店があり、そのすべてのメニューをチェックするわけにはいかない。となれば、美味しいメニューが多い、評判の良い店に出入りするようなもの。これはメディアの信頼度における「媒体レベルではなく発信源レベルの問題」にもつながる。ウソばかりついている人には耳を傾けるだけ無駄だと思うようになるでしょ? それと同じ。


この辺りの話は上記で大よそ語られている。結局昔から新聞やテレビなどの主要な、一方的に情報を不特定多数に向けて発信できる能力を有していたメディアは、その内容が雑ではあったし、偏向やねつ造も数多く行われていた。でもそれを指摘する専門家は指摘反論の手段をほとんど持たなかったし、直接反論をしたところで無視されるのがオチだった。よほど大きな事案に発達しない限りね。商売の邪魔になるから。

よく揶揄的に使われる「大本営発表」という言い回し。要は中身が都合の良いように差し替えられていても、それを信じるような環境ができていた、信じざるを得なかったし、検証のしようもなかった。それがそのままかつての新聞でありテレビだった次第。お上的な存在であり、疑う余地などなかったわけだ。

新聞やテレビなどの、かつて一方向で情報を発信する力を独占し、その独占があったからこそ成し得たビジネススタイルが、少しずつ、でも確実に土台を崩しつつある昨今。「報道」の言葉の真意を見直し、フェイクニュースといったデコイで誤魔化そうとせず、今後自らの立場をどのように「社会に存在意義のあるもの」として位置づけるのか、そのために必要なことは何なのか、考える必要があるのではないかな。今まで与えられてきた権限を濫用、さらには悪用し、食い扶持を確保し続けたり、他の目的に利用しているようでは、自らの寿命を縮めているだけな気がする。

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このページは、不破雷蔵が2017年2月27日 07:23に書いた記事です。

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