「報道しない自由」は多分に「反復報道しない自由」を意味する

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ジャム瓶やら川口浩の探検隊まがいの話やらでも記憶に新しい、豊洲市場の問題。あれだけ新聞やテレビが大騒ぎしたリスクに関しては、結局問題は些細なものでしかなく、比例原則に従えば報道に携わった関係者は皆首が飛んでもおかしくは無いれペレには違いないのだけど。危険か否か云々ではなく、単に人を惑わせ怖がらせ注目を集め、商売や知名度向上に貢献すればそれで良しとする姿勢の上での伝え方が本心であるとすれば、納得は行く。

また、報道に限らずだけど、情報の伝聞はインターネット上の情報のように記録され検索されるものでは無い一般メディア、例えばテレビや新聞のような一過性で留まることが無いものならば、反復されることが重要となる。暗記物と同じで、繰り返し目に留まり耳に入ることで印象が深まる次第。それがなされないのはなぜだろう。安全性の確保が改めて示されたというのに。


某専門家は馬脚を現してかえってその名声を失墜させてしまった感はあるけれど、多分に伝えた報道各社や率先した専門家、一部政治家は、今件で明らかに利を得たことになる。それと引き換えに都税が浪費されたのには違いなく、半ば間接的に都税をそれらの界隈に収奪されたと認識しても問題は無い。第一、比較検証が必要不可欠な今件事案に関して、当事者、関係者の誰もがそれを指摘しない、実施しないのがどれほど異常な状態にあるのか。

報道や専門家が社会から与えられている責務を果たさないがために、多くの人の資産が浪費されてしまう。さらにはその浪費分から間接的にネコハバしているのと同じ構造が作られてしまっている。そして万一この構造にメスが入ろうとすると「状況の確認と事実の究明が優先されるので、責任は免除されるべきだ」との大義名分が振り回され、懐を温めた人たちはおとがめなしとなる。単純な事故などならともかくとして、それでは逆に同じことが繰り返されかねない。

このような話が繰り返されれば、報道や専門家への不信感が高まるのも当然至極の話だとは思うのだけどね。

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このページは、不破雷蔵が2016年11月 2日 07:41に書いた記事です。

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