在宅と福祉と効率性と

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社会福祉と社会秩序の話。その福祉を支えるための負担が大きすぎると、支えられる側の環境が相応に悪化して来たり、理不尽さを覚える状況となりかねず、非常に由々しき問題となるのも最近の問題ではある。科学技術の進歩や人権概念の領域の拡大、固定概念のがっちりとした固定化と、周辺環境が変化しているにも関わらず旧来の常識にとらわれたままになっているなど、理由は多種多様だけど。さらに情報伝達の多様化で、色々と見えなくても良いものが見えてしまっている辺りが、問題を加速化させている。

「無敵状態」という言葉に代表される通り、ヒャッハーな人モードにさせないための福祉。これが現実的で一番分かりやすい。昨今では仕切り分けが悪用される事例もあるけれど「健康で文化的な最低限度の生活」ってのはまさにそれの明文化。


他方、例えば介護保険周りの話に代表されるように、社会全体のリソースの分量を勘案すると、効率を優先するべきであるとの話も多々出てくる。指摘の通り在宅介護のコストは、一見するとカットできているように見えるけれど、一歩引いて考えると逆に膨大なコスト増でしかない。

兵士一人を完全に打ち倒したり、後方送りにするぐらいの大きなダメージを与えるより、中途半端に傷つけて、複数の平常な状態の兵士に負担を与えた方が、敵に与える損害は大きくなる。考え方としてはこれと同じ。

社会のリソースは限られている。その中でよりよいサービスを、少なくとも最低限の便益を提供し続けるとするのなら、規模の経済の仕組みを活用しなければならない。感情や思惑などとのバランス調整は必要になるけれど、昔と今とでは色々な状況が異なっており、昔のままの状態を維持するのには、それなりの自己負担が必要で、それは結局社会全体においては大きなマイナスになるってことを、そろそろ皆がしっかりと自覚をすべきではないのかな。

いや、自覚は深層心理の部分でしているのかもしれないけど、それをしっかりと意思判断の上で用いるべき、とすべきなのかな。

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このページは、不破雷蔵が2016年8月24日 08:12に書いた記事です。

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