「説明されても、その理屈はわからない、理解できない」と思ったら

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説明されても理解できないのは相手の説明が悪いからだ、もっと易しく、自分が分かりやすいように説明しろ。どこその国の議員先生がこれを濫用して、「自分の想い通りの結論を相手が出してくるまでは一切理解しないと表明する」カードを切りまくってしまったおかげで、説明そのものの意義が希薄になってしまった感は否めないのだけど。一方で「理解できない」との意見には、説明する側は色々と改善点を模索する機会が得られたことになる場合もある。クレームと意見と単なるダダごねの境い目を見極めるのは難しいけれど。

で、説明を受ける側の立場として、一部の議員先生のように「自分の我を通すための分からないふり」ではなく、純粋に分からないと思った時の可能性としての示唆。多くは「2」のケースなのだろうけれど、状況が非日常的な場合、「1」「3」による場合も多々ある。

そして、当然のことながら「理解できないこと」が正しいに直結するはずはない。もちろん説明そのものが間違っている可能性はあるけれど、間違っていると判断できるのなら、その判断をした要因は理解できているはずで、ならば説明された理屈も理解できていなければおかしな話となる。


宇宙のTOKIOと絶賛された「オデッセイ」のよいところは、ひたすらに登場人物たちがポジティブであること。物事をよりよい方向に持っていくのには、何が一番近道なのかを教えてくれる。そして逆説的ではあるのだけど、「不安」とは何なのかを示唆してくれる。「わからないのは自分が門外漢だからで、納得できないのは基礎知識がないから」とは言い得て妙で、だから駄々をこねたところで世の中はちっとも良くならない。もっとも本当に「不安」なものの多分は、何が不安なのか、それ自身が分からないってことでもあるのだけど。

ともあれ、感情は人には欠かせない感覚には違いないけれど、論理立てたものの結果ではないので、得てして物事の解決にはつながらない。感情論で行動を決定しても、その時はすっきりするかもしれないけれど、それで中長期的にハッピーとなれることはあまりない。感情を押しとどめていると破裂するので、何か別の事柄での息抜きは必要だけど、直接の事案を感情論で判断するのはやめるべきではないのかな、と思う。

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この記事について

このページは、不破雷蔵が2016年4月18日 07:25に書いた記事です。

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