一次ソースを掲載すると何か不都合でもあるのだろうか

| コメント(0)


先日NHKの報道が事実上の第一報となった、原発事故関連の論文に関する報道。要は環境の変化やら情報の錯綜、精神的プレッシャーによるダメージが大きかったとするものだけど、どのようなスタッフが論文作成に携わったかは書いてあっても、具体的にどこに掲載されたどのような名前のものかは一切なし。

色々探ってどうやらThe Lancetに掲載されたらしいってことまでは分かったのだけど、該当サイトのどの部分に載っていたのかまでは判明せず。台湾の新聞とかAFPとかでも詳細な報道が出て、ようやくある程度姿が見えてきた程度。AFPなどの記事では具体的数字も掲載されているので、原文を読んだであろうことは容易に分かるのだけど。

で、NHKは特に、そうでなくとも日本の報道機関は多分に、何らかの情報を周知してニュース化する際に、一次ソースとなったものを明らかにしない場合が多い。公的資料にしてもどのような機関が公開したいかなる名前の論文、リリースなのかが分からない。当然リンクも張っていないので、新聞社やテレビ局などが一次ソースであるかのような感じになる。でも独自取材ニュースならともかく、今件のような論文なりリリースがあるのなら、一次ソースは新聞社の記事やテレビでは無いよね。

なぜわざわざ表記しない必要性が生じているのかな。

海外の記事ではその多くが上記のように具体的な引用・参照元を記載しているので、一次ソースを探すのも比較的容易。新聞社などの記事でもポータルサイトに転送される場合、そのうちのいくつかでは関連記事として一次ソースへのリンクが張られることもある。でも全部じゃない。調べきれない所があるのだろう。

引用元や参照元を記載したところで、記事の信頼性が失われるわけじゃない。むしろ「間違いだと思ったのなら一次ソースで調べてみてよ、正しい事が分かるから」って感じで信頼性は高まる(それに応える内容であるのなら)。

「関係者」とか「観測筋」といったもやもやとした良くわからない、あるいは今件のように特定されない論文などで一次ソースを曖昧にして、自社の権威立てのみでニュースの信頼性を盛り上げられる時代はすでに終わっているのだけどね......。

関連記事             

コメントする

            
Powered by Movable Type 4.27-ja
Garbagenews.com

この記事について

このページは、不破雷蔵が2015年8月 1日 07:16に書いた記事です。

ひとつ前の記事は「他人の感想を参考にすることと、他人の感想に自分の想いがのっとられることと」です。

次の記事は「「震災の時に日本がぐちゃぐちゃになっても近隣敵対国は攻めてこなかったじゃん」という話」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

* * * * * * * * * * * * * *


2021年6月

    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30