「ツイッターを使っているのは承認欲求を満たすため」と「承認欲求」という言葉自体の陳腐化

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ここ数年流行の言葉の一つが「承認(欲求)」なるもの。心理学的な意味合いも含んでいる事から、なんだか専門用語っぽい、カッコよさがあるのも流行の一因のようだ。意味合いとしては「不特定多数の中の一人」「その他大勢」では無く、個々の人格として自分自身を認識してほしい、他人から見られたいという自己顕示欲、見てほしいという願望。まぁ、「目立ちたい」とか「認めてよ」的なもの。

昔からこの類の感情ってのは誰しも多かれ少なかれ持っているものだけど、インターネット、特にソーシャルメディアの普及で不特定多数の感情、意見、行動、様態が容易に確認できるようになり、境界線ってのが随分と曖昧になったことを受け、その境界線を明確化し、「自分を見て、他の誰でもない自分を」的な願望が強くなったってのはある。ソーシャルメディアに入りびたりになっていると、いつでもどこでも自分が山盛りの人の中、日曜の歩行者天国の中、満員電車でもみくちゃにされている状態に思えてしまう。自分はどこ? 他の誰でもない、自分自身は!? 「承認欲求」ってのは、自分自身を他人の中に埋もれさせたくないという、個の主張でもあるわけだ。

その観点では自己主張を大いに、そして容易にできるツイッターが流行るのも理解はできる。そして同時に、自己主張が無意識のうちに日常化されてしまい、つい本当の意味での独り言的なものを第三者に向けて開示してしまうってのも納得がいく(先日の某嬢のトラブルのように)。ツイッター周りの話で何度か触れているけれど、本当に独り言を語りたいのなら、画面に向かって語るか、少なくともテキストファイル上に書き出せばよい。後者は自分の脳内の思考を体現化することになるので、心理学上でも効果がある。

ただ一方で、何かの事象を説明する時に「承認欲求」を原因とするとかきっかけだとする云々との説明が陳腐化しているのも事実。考え直してみれば強度の違いは有れどほとんどの人が有している感情、心理状況を理由としてしまうと、説明をしているようで実質的に意味が無い感は否めない。それこそ「人間だから」「生きているから」的なものとさほど変わりが無くなってしまう。


確かにそうなんだよね。間違いではないけれど大雑把すぎて、具体性が何もない。何食べたいの? と聞かれて「食べ物」と答えるみたいな感じ。

使いやすい言葉ではあるが、あまりに濫用しすぎると、意味をなさなくなってしまうこともある。本来の、というか当初は「承認欲求」という言葉自体も、普遍的なものではなく、「承認欲求」の中でもとりわけ強い、常識的な領域を超えた特異性とまで評価できるレベルでの欲望のことを指していたはず。

似たような状況に陥った言葉は、実は結構あったりする。特に他人を低い位置として評価する言葉や、非難する際の言い回しで多いんだな、これが。

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このページは、不破雷蔵が2015年5月10日 08:24に書いた記事です。

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