「自分は悪かった」の自己反省は被害者の救済に至らないこともある、そして「やり得」「やられ損」リスクへの懸念

| コメント(0)


指摘されている具体的事象に関する言及は避けるとして(その内容そのものを精査しきれていないのもある)。説明されているもやもや感は何となく、いや、他の事例を想起すれば大よそ理解はできる。例えば漫画などで良くある、いつもは悪役の人がちょっと良いことをすると全面的に評価されるような。あるいは芸能人が自慢げに過去の悪行をさらけ出して「今は良い人」をアピールすような。

その人自身の状況の改善がなされれば、それは評価できることに違いは無い。それが継続されれば、一時的な、批判をかわすための仮面的なもので無ければ。で、それ自身は評価されるのだけれど、その時に、かつての悪行によって被害を受けた人達のことは置き去りにされていないだろうか。その辺りがもやもや感の原因だと思う。あるいは悪行へのペナルティ的なものが「反省」という免罪符で全部チャラになってしまってはいないか。

単純に表現すると、「自分は悪かった」と宣言したけれど、相手に対して「ごめんなさい」をしてない。そんな感じではないだろうか。言葉をむける相手を違えていないだろうか。


第三者、当事者以外から見れば、「反省した」と声を挙げた人のみに注目してしまい、その背景にあるものまで目が届かなくなる。反省してそれを継続することができれば、それはそれで評価賛美に値するものだけれど、その時、それまでに成したことを「無かったこと」にするというのは、良いことなのか否か。単純なミスの場合と意図的な場合、それぞれ判断は違ってくるだろうけど。

難しい話ではある。そして「もやもや感」の本当の部分は、実際に「かつて被害者だったけど、加害者側が『反省した』とアピールしたことで、自身には頭を下げていないのに、世間一般は高く評価した場合の、自分が取り残されたようなやりきれなさ、理不尽さ」を経験してみないと、分かりにくいのかもしれないな。

関連記事             

コメントする

            
Powered by Movable Type 4.27-ja
Garbagenews.com

この記事について

このページは、不破雷蔵が2015年4月 9日 07:07に書いた記事です。

ひとつ前の記事は「ねこあつめのえきちょうさんの遊び道具は実在する」です。

次の記事は「今の高校生にとってスマホは必需アイテムであると同時に憧れアイテムなのかもしれない」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

* * * * * * * * * * * * * *


2021年6月

    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30