世間一般の「理解」とオタクな人たちの「理解」の違い

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個人の趣味趣向に対して「自分の感情論的なところから」過度の拒絶反応を起こし、それを第三者に強要したり、世間一般的なものとして周知を試みる。定期的に、と表現してもいいけれど、それ位頻繁にその類の話が持ち上がり、それと共に例えば「夫の模型がウザイのでこっそり全部捨てたら夫が無反応になった」などの話が持ち上がる。自分にとっては些細な、うざったいものかもしれないけど、当事者にとっては大切な、かけがえのないものって結構あるのだけど、同時にそれには気が付きにくいのが人のさが。子供のころに見た目はぼろぼろだけれど大切にしていたおもちゃを「汚いから」「古いから」という理由だけで、親に捨てられた経験を持つ人はどれだけいるだろうか。

これに絡んでの話と思われる、ちょっと考えさせられるお話が上の流れ。

「理解ある」という言葉の意味が「同好の友」的な意味なのか、それとも「存在を認め共存する」という意味なのか、解釈によって違ってくる。そして世間一般的にはどうやら「一緒に遊ぶ」的なところを「理解」とし、「黙って見過ごす」のを「寛容」と認識しているようだ。一方趣味人からはその「黙って見過ごす」あたりも「理解」の範ちゅうにある。


まさに指摘の通り。どうも言葉の解釈的に

A...一緒の趣味を持ち、共に楽しむ


B...趣味の内容に同調は出来ないけれど、存在は許容する。排除は求めない
 (対象の人物がその趣味に没頭することも拒否はしない)

C...趣味の内容を嫌う、対象人物がそれを好むのを理解できない
 (時として感情的に忌み嫌う)



という3段階の対応がある場合、世間一般の「理解」はAのみ、趣味人にとってはAとBを意味している模様。そして世間一般の「寛容」はBに相当する、と。趣味人にとっても「寛容」はB足り得るんだけどね。

あるいはBとCの間に「趣味内容は理解できないけど、対象人物が好きなので、その人物が趣味内容を堪能するのはかろうじて我慢できる」を加えるべきか。ただその場合、概してBかC、往々にしてCにシフトしてしまう。

以前夫婦間を中心としたコミュニケーションのギャップ、口から出た言葉の真意を語り手と受け手が異なるニュアンスで受け取ってしまうことの問題点について触れたけど、今件も似たようなギャップなんだろうな。

いわゆる「オタク」と呼ばれる人たちが「自分達を理解してほしい」と語ると、往々にして強い拒否反応が返ってくる。それは多分に上記の通り、「同じ趣味を持とうぜ」と解釈してしまっているから。でも現実には「存在を理解し、排除しないでくれ」を意味することが多いんだよね。仇を成すものでないのだから、多様性を認めてくれ、ということ。

このあたりのギャップもまた、色々と対立、問題視される一因なんだろうな。もちろん個々人の感情論が多分に影響するところも大きいのだけれど。

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このページは、不破雷蔵が2014年11月 7日 07:51に書いた記事です。

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